すべての人間に人権があることは、疑問の余地がない。産まれたばかりの新生児や、死ぬ寸前の、意識もなく体も動かせない重病人、生まれついての重度の身体障害者、にも、当然ながら人権がある。
人権があるかどうかは、人間かどうかで決まる。
ただしこれは、人権が認められる理由である。逆に、人間でないものには人権を認めないでいいか、と言われたら疑問が残る。
先を急がずに行こう。表題は、アシモフの中編「バイセンテニアル・マン」をロバート・シルヴァーバーグが長編化したもので、映画にもなっている。あるロボットが2世紀をかけて、自らを人間にしようとする話である。
当然ながらこの小説は、ロボットを人間と認めるか、が中心テーマと言える。
ここでもう一周遠回りをする。知性とはなにか、意識とは何か、どうやってそれを認知するか、である。
知性や意識が存在するのかを外部から認識するためには、当該物体にアウトプットデバイスが必要である。モニタやスピーカーのない、電源だけが入ったパソコンを想像してみるといい。内部でどのような処理をしても、外に出てこなければ観察することは不可能である。ただしここで注意しなければいけないのは、認識できないからと言って意識や知性がない、とはならないことである。
モニタにつながっていないパソコン内の処理が、行われていないと考える理由はない。単にアウトプットがなされないので観察できないだけである。
意識があると認識できないことと、意識が無いこととは分けて考える必要がある。
*この項は、ロボットや人工人格の人権について考えることが目的です。以下続きます。
人権があるかどうかは、人間かどうかで決まる。
ただしこれは、人権が認められる理由である。逆に、人間でないものには人権を認めないでいいか、と言われたら疑問が残る。
先を急がずに行こう。表題は、アシモフの中編「バイセンテニアル・マン」をロバート・シルヴァーバーグが長編化したもので、映画にもなっている。あるロボットが2世紀をかけて、自らを人間にしようとする話である。
当然ながらこの小説は、ロボットを人間と認めるか、が中心テーマと言える。
ここでもう一周遠回りをする。知性とはなにか、意識とは何か、どうやってそれを認知するか、である。
知性や意識が存在するのかを外部から認識するためには、当該物体にアウトプットデバイスが必要である。モニタやスピーカーのない、電源だけが入ったパソコンを想像してみるといい。内部でどのような処理をしても、外に出てこなければ観察することは不可能である。ただしここで注意しなければいけないのは、認識できないからと言って意識や知性がない、とはならないことである。
モニタにつながっていないパソコン内の処理が、行われていないと考える理由はない。単にアウトプットがなされないので観察できないだけである。
意識があると認識できないことと、意識が無いこととは分けて考える必要がある。
*この項は、ロボットや人工人格の人権について考えることが目的です。以下続きます。



