わがアナーキズムの偉大なる先達、安部公房に捧げる
司法について(2)
まずはじめに書いておくが、著者キンシャチは死刑反対の立場を取るものである。

重大犯罪容疑者、被告に対する刑罰は、厳罰(死刑)こそが被害者感情にかなっている、と言われることがある。これにはいくつかの点で疑問を感じる。被害者(遺族)の救済は重要なことである。が、司法とは被害者のためにのみ存在するわけではない。また世論に従い裁くわけでもあるまい。そして、遺族にもいろいろな考えの方がいて、犯人を死刑にすれば満足する人だけではないのである。

百歩譲って、殺人犯人を死刑にすることが遺族の感情を充分に満足させる、としよう。だが、被害者遺族が存在しない殺人事件もありうる。天涯孤独の人間を殺した場合、あるいは一族皆殺しにした場合、悲しむ遺族はいないのだ。この場合、誰の感情を満足させるために犯人を裁くのだ?

そして、殺人ではなくても、犯人に対する深い恨みを抱く被害者もありうる。レイプ犯が分かりやすい例である。被害者は命を奪われなくても、犯人に対して殺意を抱くかもしれない。放火魔に家を焼かれた人、全財産を詐欺で取られた人、みな犯人を殺してやりたい程うらむであろう。犯罪者はどいつもこいつも死刑にする、わけにもいくまい。

刑事事件とは、あくまでも原告は検察である。国と被告の裁判なのである。被害者(遺族)との裁判は、民事である。