「杉山百合子 第3準備書面1」
http://comcom.jca.apc.org/iken_tokyo/junbi_shomen/kojin/sugiyama_y/junbi_sugiyama_y_3a.html
「アメリカのトーマス・ジェファーソンのつぎの言葉は、権力分立の意図するところをよく表している。
『われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。
われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。』」
権力を疑うのは当然のことである。人間は権力を持った瞬間から腐敗が始まる。 だから議員には任期があり、定期的に国民の信を問うのだ。腐敗した議員や無能な議員は排除される。二院制は、相互監視が目的である。ねじれているのがむしろ正常な状態なのだ。
国家運営は懐疑精神をもとに行われる。外交や防衛も、他者に対する不信から始まるのだ。
http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber/preview080212.html
今、医療現場が荒廃している。医師不足が加速しているのだ。
例えば、産婦人科の医者はこの10年で約15%、外科医は約8%も減少している。これによって、都市と地方の医療格差がますます広がっているのだ。儲からない診療科は減らされ、産婦人科や小児科のない町も出てきているし、さらに病院が一つもなくなってしまった島もある。また、地方では高度の医療を受けられなくなってきている。
こうした「医療格差」を無くすにはどうすればいいのか? 実はそうした状況を改善する手段として「遠隔医療」が注目を集めて始めている。 遠隔医療とは、ITネットワークを活用した最先端の医療。
ブロードバンド回線で送られた画像を見ながら、遠く離れた患者を大きな病院の専門医が診断したり、手術用のロボットを遠隔操作して患者を治療するというものだ。 番組では、遠隔医療で目の治療に挑む失明寸前の患者に密着するとともに、 研究の最前線を取材。未来の医療の可能性に迫る。
医療が崩壊しつつあることは言うまでもないだろう。早いところ手を打たないといけない。
さて上の文章では、医者不足がまるで自然現象であるかのように書かれているが、これは違う。なぜ産婦人科医が10年で15パーセントも減ったのか。僕は、激務と重責がいちばん大きいと思う。妊婦さんはいつ産気づくか分からないので、昼夜関係なしに仕事に追われることになる。また、福島大野病院事件をみても分かるように、いつ逮捕されてもおかしくはない状態にいる。産科医は異常なプレッシャーを負わされている。こんな、地雷原の中を歩くような恐怖の中で働きたいと思うだろうか。
(なお、安倍晋三政権時代の柳沢厚生労働大臣は、
「(産科医の減少について)出生数の減少で、医療ニーズがはっきり低減しているということの反映というふうに承知をいたしております。」
とか言って、反発を食らった。)
医師が減れば残された医師の仕事が増る。仕事が増えれば忙しくなり、細かいところまで手が回らなくなり、ミスも発生する。すると訴訟リスクが高まるので、ますます医師が減る。この悪循環を断ち切るには、お医者さんの勤務時の待遇を改善し、医療事故の際の責任の所在を明らかにすることが必要だと思う。
前置きが長くなった。この番組では遠隔医療なるものを紹介している。ネットワークを経由して、都市部の医師が診察や治療をするらしい。これが、本当に解決になるのであろうか。現状では、患者を目の前にして行った診察治療行為でも、結果としてわずかでも異常が見られればあちこちから突き上げをくらい最悪の場合には告発、逮捕されるのだ。
モニター越しの診察や治療行為が、じかに対面して行われるそれよりも、高精度で安全とはとても思えない。また都市部の医師は、実際の診察治療行為の他に、ネット回診もすることになり負担が増える。どうも効率が悪いように感じるのは、僕の理解力が足りないからだろうか。
高度な治療行為を多くの人に提供することには全く異論がない。どんどん開発して進めてほしいものである。だが医療崩壊の本質は、日常レベルの医療サービスの消失なのではないだろうか。この番組は問題をすり替えているようにしか思えないのである。
もうすぐサクラが咲く時期である。サクラスポットとか言って、大勢の人が花見に繰り出す。
こう云う書き出しをしたので分かると思うが、僕はサクラも花見も嫌いである。もっと正確に言うと、ソメイヨシノサクラの花見が嫌いなのだ。理由は単純で、皆が同じことをして喜んでいるのが不気味だと思うのである。テレビでもネットでも、開花予想が出され、サクラスポットが紹介され、映像が中継される。雨が降ると花が落ちてしまうと嘆き、風が吹くと花が散ってしまうとおろおろする。まるで、日本人はサクラに生かされているかのようだ。
サクラはなにも春先に咲くだけではない。たとえばヒマラヤサクラは12月に咲く。
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/cera-hm/c-himaraya.html
ほかにも、開花時期が秋や冬、二季咲きの品種はこんなにあるのだ。ソメイヨシノだけがサクラではないし、春だけがサクラの季節ではない。
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/cerasus-colle/kaika4.html
開花時期が異なるサクラをあちこちに植えておけば、こんな狂乱を演じなくても、見たいときにいつでも花見が出来る。人出も分散するので混雑もしない。え、春は季侯が良いって?とんでもない。スギ花粉症患者にとっては地獄の季節なのだ。
(2)
安部公房は、「サクラは異端尋問官の紋章」(『死に急ぐ鯨たち』(新潮社刊)収録)の中で、サクラを、「日本人には情念の誘発装置として作動する強力な象徴」だと言い「ナショナリズムの支点がつねに情念にかかっていることは否定しえない事実だろう。」と結んでいる。日本において、サクラがナショナリズムと接点をもっていることは、それこそ否定しえない事実であろう。たとえば、チャンネル桜。あるいは、靖国神社に大量に植えられていると云うサクラ。サクラの散ることを美しいとする思想。
春になるとサクラスポットで花見をするすべての個人個人が、ナショナリズム信奉者であるとはもちろん思えない。だが、集団とは、個人個人の意思とは異なるふるまいをみせることもある。そして、ナショナリズムとは全ての個人を無視する巨大な意識、という部分ももちろんある。僕には、サクラの花見に出かける人々が、ナショナリズムの客寄せをするサクラに見えて仕方がないのである。





