わがアナーキズムの偉大なる先達、安部公房に捧げる
政治と懐疑主義
たとえば、「独立宣言 ジェファーソン 猜疑」と検索するとすぐに出て来るページがこれである。

「杉山百合子 第3準備書面1」
http://comcom.jca.apc.org/iken_tokyo/junbi_shomen/kojin/sugiyama_y/junbi_sugiyama_y_3a.html


「アメリカのトーマス・ジェファーソンのつぎの言葉は、権力分立の意図するところをよく表している。

『われわれの選良を信頼して、われわれの権利の安全に対する懸念を忘れるようなことがあれば、それは危険な考え違いである。信頼はいつも専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。

われわれが権力を信託するを要する人々を、制限政体によって拘束するのは、信頼ではなく猜疑に由来するのである。われわれ連邦憲法は、したがって、われわれの信頼の限界を確定したものにすぎない。権力に関する場合は、それゆえ、人に対する信頼に耳をかさず、憲法の鎖によって、非行を行わぬように拘束する必要がある。』」



権力を疑うのは当然のことである。人間は権力を持った瞬間から腐敗が始まる。 だから議員には任期があり、定期的に国民の信を問うのだ。腐敗した議員や無能な議員は排除される。二院制は、相互監視が目的である。ねじれているのがむしろ正常な状態なのだ。

国家運営は懐疑精神をもとに行われる。外交や防衛も、他者に対する不信から始まるのだ。
サクラの季節
(1)
もうすぐサクラが咲く時期である。サクラスポットとか言って、大勢の人が花見に繰り出す。

こう云う書き出しをしたので分かると思うが、僕はサクラも花見も嫌いである。もっと正確に言うと、ソメイヨシノサクラの花見が嫌いなのだ。理由は単純で、皆が同じことをして喜んでいるのが不気味だと思うのである。テレビでもネットでも、開花予想が出され、サクラスポットが紹介され、映像が中継される。雨が降ると花が落ちてしまうと嘆き、風が吹くと花が散ってしまうとおろおろする。まるで、日本人はサクラに生かされているかのようだ。

サクラはなにも春先に咲くだけではない。たとえばヒマラヤサクラは12月に咲く。
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/cera-hm/c-himaraya.html


ほかにも、開花時期が秋や冬、二季咲きの品種はこんなにあるのだ。ソメイヨシノだけがサクラではないし、春だけがサクラの季節ではない。
http://hccweb5.bai.ne.jp/nishicerasus/cerasus-colle/kaika4.html


開花時期が異なるサクラをあちこちに植えておけば、こんな狂乱を演じなくても、見たいときにいつでも花見が出来る。人出も分散するので混雑もしない。え、春は季侯が良いって?とんでもない。スギ花粉症患者にとっては地獄の季節なのだ。

(2)
安部公房は、「サクラは異端尋問官の紋章」(『死に急ぐ鯨たち』(新潮社刊)収録)の中で、サクラを、「日本人には情念の誘発装置として作動する強力な象徴」だと言い「ナショナリズムの支点がつねに情念にかかっていることは否定しえない事実だろう。」と結んでいる。日本において、サクラがナショナリズムと接点をもっていることは、それこそ否定しえない事実であろう。たとえば、チャンネル桜。あるいは、靖国神社に大量に植えられていると云うサクラ。サクラの散ることを美しいとする思想。

春になるとサクラスポットで花見をするすべての個人個人が、ナショナリズム信奉者であるとはもちろん思えない。だが、集団とは、個人個人の意思とは異なるふるまいをみせることもある。そして、ナショナリズムとは全ての個人を無視する巨大な意識、という部分ももちろんある。僕には、サクラの花見に出かける人々が、ナショナリズムの客寄せをするサクラに見えて仕方がないのである。