人権があるかどうかは、人間かどうかで決まる。
ただしこれは、人権が認められる理由である。逆に、人間でないものには人権を認めないでいいか、と言われたら疑問が残る。
先を急がずに行こう。表題は、アシモフの中編「バイセンテニアル・マン」をロバート・シルヴァーバーグが長編化したもので、映画にもなっている。あるロボットが2世紀をかけて、自らを人間にしようとする話である。
当然ながらこの小説は、ロボットを人間と認めるか、が中心テーマと言える。
ここでもう一周遠回りをする。知性とはなにか、意識とは何か、どうやってそれを認知するか、である。
知性や意識が存在するのかを外部から認識するためには、当該物体にアウトプットデバイスが必要である。モニタやスピーカーのない、電源だけが入ったパソコンを想像してみるといい。内部でどのような処理をしても、外に出てこなければ観察することは不可能である。ただしここで注意しなければいけないのは、認識できないからと言って意識や知性がない、とはならないことである。
モニタにつながっていないパソコン内の処理が、行われていないと考える理由はない。単にアウトプットがなされないので観察できないだけである。
意識があると認識できないことと、意識が無いこととは分けて考える必要がある。
*この項は、ロボットや人工人格の人権について考えることが目的です。以下続きます。
重大犯罪容疑者、被告に対する刑罰は、厳罰(死刑)こそが被害者感情にかなっている、と言われることがある。これにはいくつかの点で疑問を感じる。被害者(遺族)の救済は重要なことである。が、司法とは被害者のためにのみ存在するわけではない。また世論に従い裁くわけでもあるまい。そして、遺族にもいろいろな考えの方がいて、犯人を死刑にすれば満足する人だけではないのである。
百歩譲って、殺人犯人を死刑にすることが遺族の感情を充分に満足させる、としよう。だが、被害者遺族が存在しない殺人事件もありうる。天涯孤独の人間を殺した場合、あるいは一族皆殺しにした場合、悲しむ遺族はいないのだ。この場合、誰の感情を満足させるために犯人を裁くのだ?
そして、殺人ではなくても、犯人に対する深い恨みを抱く被害者もありうる。レイプ犯が分かりやすい例である。被害者は命を奪われなくても、犯人に対して殺意を抱くかもしれない。放火魔に家を焼かれた人、全財産を詐欺で取られた人、みな犯人を殺してやりたい程うらむであろう。犯罪者はどいつもこいつも死刑にする、わけにもいくまい。
刑事事件とは、あくまでも原告は検察である。国と被告の裁判なのである。被害者(遺族)との裁判は、民事である。
先日の「光市の母子殺害事件」裁判(以後本稿では光市裁判と略す)では、世論の後押しによって死刑宣告がなされた、バンザーイ、という論調の発言が目立った。mixiニュースでは、目測ではあるが80パーセント以上が死刑判決を支持しており、また多くの記事では弁護団への攻撃もあった。ohmynewsには、「メディアなどでアピール続け、「勝利」得る」と云う記事が上がっている。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080422/23818
そして元気満々の死刑存置論者もいる。以下のリンクは矢本真人なる方の「殺人事件の予防になれば死刑はあって当然」という、恐怖支配の翼賛記事である(ちなみに僕(=キンシャチ)は死刑には原則反対である)。一番けったくそ悪い部分を引用しておこう。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080423/23874
なぜなら、刑法は道徳の教本であり、社会生活に必要とされる最低限の道徳規範だと考えるからだ。
「人を殺したら、死刑になる」、「人の物を盗ったら罰せられる」、「他人に暴行を加えたり、傷つけたら刑務所に行かされ、親兄弟は地元に住めなくなる」など、「悪いことをすればこんな罰を受けるんだ」ということを教えてくれる教本である。そして、予防効果がある。
親兄弟にまで責任を問うことが当然、と言わんばかりである。矢本真人氏はよほど高潔な人間なのであろう。
(2)
僕は正直言うとこの光市裁判にはまったく関心がない。興味があるのは、猟奇事件のたびごとに、自分のことのように感情をむき出しにする大衆や、それをあおるメディア、「世論」を利用する司法の態度、である。
たとえば、有名な「きっこのブログ」では、光市裁判の結果を当然のこととして、肯定している。また同記事では昨年の磯谷利恵さんの事件(実にむごたらしい事件だ)と、犯人を死刑にするための署名サイトを紹介している(ちなみに僕は普段「きっこのブログ」を読んでいないので、きっこ氏がどのような人格を有しているのか分からないのだが、今回の記事を読むかぎりではあまり論理的ではない方のように思える)。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2008/04/post_7441.html
はじめに書いた「世論の後押し」あるいはきっこ氏の紹介する署名とは、果たして何なのか。
司法と云うのは法と判事自らの良心に基づいて判決を下すところだ。世間の誓願によって、判断をするわけではない。では誓願によって新法を制定して、被告に、より重い罰を与えることは可能だろうか?無理だ。その法は、憲法にもあるように(第39条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。)、犯罪実行時に有効な法でなければならない。新法は、今後起こるかも知れない類似の事件には適応できるかもしれないが、当該事件には無力である。
過去には判例もある。「伊藤真 入門六法 憲法」(弘文堂)のP232には、「裁判官の良心」として、
76条3項の裁判官が有形無形の外部の圧迫ないし誘惑に屈しないで自己内心の良識と道徳感に従うという意味である(最大判昭23・11・17百選II[4版]188事件
とある。
つまり、司法に対する誓願や署名はまったく意味を持たない。また持ってはいけない。多数の人間の署名が集まったら、コソドロでも死刑かよ。猟奇殺人の現行犯も無罪かよ。そんなのおかしいでしょう。司法は社会と切り離されていなくていけないのだ。
あわてて書き加えると僕は、きっこ氏を含む市民の、司法に対する誓願を糾弾しているわけではない。自己の意思を表明することは大事なことだし、僕なら関心ももたない他人の事なのに、積極的に発言して署名や誓願をすることは、おそらく立派なことではあろう。
問題は司法の側なのだ。司法は「世論」に振り回されてはいけないし、「世論」を利用してもいけない。「世論」との癒着は司法を殺すのだ。大声で叫べば判決が変わる。論よりデシベル。こんな裁判を支持できますか?司法裁判の信頼性を揺るがす大問題なのである。「世論」におもねる現在の司法は、まるで自らを呑み込むウロボロスである。
最後に。
無罪と無実は違う。刑事裁判では、推定無罪の原則により検察側が被告の罪を立証しなければならない。被告には自らの無罪を説明する義務は無い。刑事裁判で問われるのは検察なのである、本来は。検察は客観的な証拠を提示して100点を取らなければならない。そしてその証拠の収集方法にも、チョンボがあってはいけない。仮に、違法に集めた証拠で被告の犯行を立証しても、そんな裁判になんの価値もない。その場合には被告は無罪になるべきである。
家族は構成員の選択が出来ない。これが夫婦ならば、両性の合意によって形成されるが、親は子供を選べないし子供も親を選べない。なのに、夫婦は離婚できるのに家族の解散は出来ない(本当は出来るのかもしれないが、一般的ではない)。これはとても理不尽だと思う。
一家心中とか親殺しなどは、家族の中で世界が完結してしまうので起こるように感じる。むしろ個人が家族に押しつぶされないように、「家族なんて暫定的に同居しているだけの他人で、いつでも出てって良い」としたほうが、いいのではないか。
幼児虐待も「自分の(自分に属する)」子供だと思うから起こるのではないか(少なくとも要因の一つであろう)。子供は一人の人間で、親は一時期預かっているだけの存在であることを自覚する必要がある。また、家の中は一種の密室で、親は生殺与奪権を持つ強者であることも、充分に意識するべきである。
またこの特集では下村博文と稲田朋美が家族の価値の回復と、その手段のひとつとしての尊属規定の復活を主張している。尊属規定を簡単に言うと、「尊属(自分よりも代が上の親族。親や祖父母)に対する犯罪には厳罰を処す」となる。卑属(自分よりも代が下の親族。子供や孫)に対する犯罪には、特に規定はなく、通常の犯罪として裁かれる。
これは、二重におかしな理屈である。
まず、家庭内犯罪の抑止力としての厳罰化を求めるのであれば、「親族規定」として身内に対する犯罪全般を厳罰化するべきだ。幼児虐待は尊属規定に該当しない。第二に、明らかに憲法に反している(尊属規定でも「親族規定」でも違憲であることには間違いがない)。
「第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
ここには法の下の平等が明記されている。法で差別を規定することがいかにナンセンスか、それこそ子供でも分かるはずだろう。親であろうと子であろうと、見知らぬ他人であろうと、人権がある人間なのだ。尊属規定に対する司法の判断もある。
尊属殺重罰規定違憲判決
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/17-1.html
殺人の被害者が犯人の直系尊属である場合には、これを、他の者が被害者である場合に比し一層厚く保護する趣旨に出たものではないとしても、少なくとも右規定により、殺人の犯人が被害者の直系卑属である場合には、他の者が犯人である場合に比し重刑を科せられるから、殺人犯人として刑罰を科せられる関係において直系卑属は他の者に比し不利益な差別を付されていることは明白である。
尊属殺人重罰規定違憲判決
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sonnzokusatujinhannketu.htm
普通殺のほかに尊属殺という特別の罪を設け、その刑を加重すること自体はただちに違憲であるとはいえないのであるが、しかしながら、刑罰加重の程度いかんによっては、かかる差別の合理性を否定すべき場合がないとはいえない。すなわち、加重の程度が極端であって、前示のごとき立法目的達成の手段として甚だしく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法14条1項に違反して無効であるとしなければならない。
この観点から刑法200条をみるに、同条の法定刑は死刑および無期懲役刑のみであり、普通殺人罪に関する同法199条の法定刑が、死刑、無期懲役刑のほか3年以上の有期懲役刑となっているのと比較して、刑種選択の範囲が極めて重い刑に限られていることは明らかである。もつとも、現行刑法にはいくつかの減軽規定が存し、これによって法定刑を修正しうるのであるが、現行法上許される2回の減軽を加えても、尊属殺につき有罪とされた卑属に対して刑を言い渡すべきときには、処断刑の下限は懲役3年6月を下ることがなく、その結果として、いかに酌量すべき情状があろうとも法律上刑の執行を猶予することはできないのであり、普通殺の場合とは著しい対照をなすものといわなければならない。
最後に、僕は家族が有害無益なものだと言っているわけではないことをご理解いただきたい。家族制度にも有用性はもちろんある。それを認めるのにやぶさかではない。
*これについては以下のような反論もある。
http://pandaman.iza.ne.jp/blog/entry/515559/
要するに国の治安がよくなり殺人発生数が減れば減るほど、
面識のない人間同士の殺人数が大きく減少していき、
そして家庭内殺人や知人同士の殺人数が小さく減少していき
その減少格差から全殺人数の中の家庭内殺人比率が上昇していくというわけです。
非常に語弊のある言い方ではありますが、全体殺人数の中で家庭内殺人の比率が高まっていくのは「悪くない傾向」だったりします。
「世界の人口」で検索するとカウンターを表示したサイトがいくつか出て来る。それらを見ると現在2008年4月には、66億6000万人ほどが地球に暮らしているようだ。また人口の推移を記してあるサイトもある。これらを見ているとなかなか興味深い。
http://arkot.com/jinkou/
「世界の人口」サイトによると、1650年に5億人、1800年に10億人、1900年に20億人、1960年に30億人、1974年に40億人とある。人口が倍増する期間が短くなっているのがお分かりいただけるだろう。まさに歯止めなき爆発なのだ。
http://www.unfpa.or.jp/p_graph.html
また、「世界人口推移グラフ」サイトによると、1950年(25億人)から1987年(50億人)までの37年間に人口は倍増した。
http://arkot.com/jinkou/jinkousuikei.gif
国連の人口推計グラフを見ると、2050年には90億人、と増加のペースは落ちるものの、人口そのものはまだまだ増えると推測されている。またアシモフの計算によれば、47年間に人口が倍増すると仮定すると、2151年には500億人に達するらしい(「我が惑星、そは汝そのもの」早川文庫)。地球には、500億もの人口を支えるだけの資源がある、とお考えの方がいるであろうか。
必要なのは産児制限である。一夫婦に一人の子供、を徹底すれば、一世代ごとに人口が半減すると云う寸法だ。中国の一人っ子政策のロジックは正しい。正しいがまだ遅い。
日本では少子化が進行しているので、2050年には1億人、2100年には6700万人まで減少する見通しだと云う。これでも遅いとは思う。
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/syousimi.htm
人口問題は社会と密接に絡み合っているのでむつかしい問題ではあるが、人口増を口にすることが愚の骨頂であることは分かっていただけただろう。




