わがアナーキズムの偉大なる先達、安部公房に捧げる
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小沢一郎の民主党代表辞任について
自民党政権が悪であるのは、自由市民の生活を破壊するからである。民主党を応援するのは、今の日本で唯一、自民党に対抗できる政党であるからである。

小沢一郎の民主党代表辞任について否定的なことを書く人は、小沢一郎や民主党に何を期待しているのだろうか。建設会社から献金を受けないこと?

小沢一郎が代表であることに固執する人は、今回の件について小沢一郎や民主党に文句も言いたくなるであろう。しかし、民主党の政策に期待し、自民党をつぶすことを願っている方は、代表が誰であろうと関係ないはずだ。小沢一郎がただ一人で政策を決定しているわけでもないだろう。


代表辞任のきっかけは、本人でもない秘書が逮捕されたことであり、しかもまだ裁判も行われていなければ当然有罪判決が出たわけでもない。

推定無罪の原則どうり、いまの小沢一郎にはなんら後ろ暗いところはない。立証責任を負うのは追求する側で、小沢一郎の説明責任は、ない。


そもそもたった一人の人間の、野党の代表辞任で国家の有り様が変わることがおかしいのだ。あなたは、他人の地位が変わることで、自らの人生が変わってしまうことを受け入れることが出来ますか? 会ったこともない年寄りが野党の党首であることがそんなに大事ですか?

そろそろ、政治を人間関係の力学で捉えるのはやめたらどうか。肝心なことは政策でありつまりは国民それぞれの生活なのだ。


アンドリュー 4
今回は、センサ付きネジまきロボットとコンピュータの差異から始める。

第一に、扱うデータの質が始めから決まっているか否か、が大きな違いであろう。つまり、ネジの有無だけの単能具か、様々な入力デバイスが接続出来る汎用具か、のちがいである。

第二に、出入りする情報の量も肝要かもしれない。狙ったところにネジがあるかどうかを知るだけなら、わずかなデータで処理できる。ところがデジカメ画像は1枚で1メガを越えることも珍しくはない。

上記二つは結局のところ、扱うデータの総量となるようである。どうにかコンピュータまでたどり着いた。

ここからが難関である。コンピュータと生物の差異を考えていこう。まず、扱うデータ量の違いがある。詳しくは書かないが、分かっていただけると思う。

次はもっと重要な違いで、自ら情報を作り出すかどうか、である。動物は、動き、鳴き、フェロモンを分泌する。植物は生長することにより形態を変化させたり、花をつけることにより視覚情報を作る。香りも放つ。


以下続きます。

アンドリュー 3
前回の表において、コンピュータのはるか下に単細胞生物があるが、まずはこれを訂正しておきたい。具体的には、

石ころ→ネジまきロボット→センサ付きネジまきロボット→・・→コンピュータ・・→ねこ、人間

と云うように、単細胞生物のポジション自体を削除させていただく。先日はコンピュータの上位に単細胞生物を置いたが、これは違うのではないかと考えが変わった。意識を基準にするとコンピュータが上である。また、単細胞生物と高度なフィードバック機構付きのロボットを比べるのも困難で、位置は決まらなさそうである。申し訳ないが、本題とは離れていきそうなので割愛させていただく。

では以下が今回の本文である。


まずは石ころ。これに意識がある、あるいは自律行動をとれる、あるいはフィードバック機構を備えている、と考える人はいないであろう(ところが、同じ無機物であるところの水には、何らかのフィードバック機構があると信じる人間は大勢いる)。人間が考える意味においての意思を持たない物体だと言ってよい。では、次のネジまきロボットとの差はどこにあるのか?

僕自身はさしたる差はないと考える。外部との情報のやり取りがないと云う意味において全く等価であろう。次のセンサ付きになると、事情は変わってくる。プログラムされた範囲とはいえ、外部との情報交換を行う。

あ、ここが質的断絶だった。
準備不足で書き始めるとこう云うことが起こる。そもそも石ころから始めることに間違いがあったのだ。

仮定-1
外部との情報のやり取りがあるか否かが、ひとつの断絶位置である。


以下続く。
センテンスが短いのだが、ご容赦いただきたい。


アンドリュー 2
前回から間が空いてしまったことをお詫び申し上げる。


これをお読みの皆さんは、ご自分に意識があることを認識しているだろう。
では意識とは何か、これはむつかしい問題である。少なくともここで簡単に論じるには。

我が家にはねこがいる。このねこには意識や個性がある、ように見える。その理由はいくつもあるが、こちらを認識して行動することが大きい要因の一つだろう。つまりは、自律行動、フィールドバックである。

自動機械は、たとえば工場のネジまきロボットは、部材が無くても同じ行動を続けるだろう。もちろん、センサーがありある程度のフィードバックが出来るメカはある。しかしそれは、限定された事象を感知するだけである。

これにたいしてねこは、自ら動き、食事や排泄をする。人間を見上げて何事かを訴えかけ、また撫でると喜んでのどを鳴らしたりもする。この差は歴然としている。

この差が量あるいは程度の問題なのか、質の問題なのか、と云う疑問がわく。一歩一歩みてみよう。

石ころ
ネジまきロボット
センサ付きネジまきロボット


コンピュータ


単細胞動物


ねこ、人間

非常に簡略なものではあるが、自律行動の程度にそって並べてみた。この表のどこかに、質的断絶が見いだせるのか、否か。

以下続く。

アンドリューNDR114
すべての人間に人権があることは、疑問の余地がない。産まれたばかりの新生児や、死ぬ寸前の、意識もなく体も動かせない重病人、生まれついての重度の身体障害者、にも、当然ながら人権がある。

人権があるかどうかは、人間かどうかで決まる。

ただしこれは、人権が認められる理由である。逆に、人間でないものには人権を認めないでいいか、と言われたら疑問が残る。

先を急がずに行こう。表題は、アシモフの中編「バイセンテニアル・マン」をロバート・シルヴァーバーグが長編化したもので、映画にもなっている。あるロボットが2世紀をかけて、自らを人間にしようとする話である。

当然ながらこの小説は、ロボットを人間と認めるか、が中心テーマと言える。

ここでもう一周遠回りをする。知性とはなにか、意識とは何か、どうやってそれを認知するか、である。

知性や意識が存在するのかを外部から認識するためには、当該物体にアウトプットデバイスが必要である。モニタやスピーカーのない、電源だけが入ったパソコンを想像してみるといい。内部でどのような処理をしても、外に出てこなければ観察することは不可能である。ただしここで注意しなければいけないのは、認識できないからと言って意識や知性がない、とはならないことである。

モニタにつながっていないパソコン内の処理が、行われていないと考える理由はない。単にアウトプットがなされないので観察できないだけである。

意識があると認識できないことと、意識が無いこととは分けて考える必要がある。



*この項は、ロボットや人工人格の人権について考えることが目的です。以下続きます。